東洋思想と「五節句」

五節句

 

本来、節句とは『節供』と書いて、季節の変り目に神に供えた食物のことを指します。

 

中国では「重日思想」と言い、同じ数字の重なる月日を忌み嫌ったため、神を迎えてお祓いをしました。

その中でも、東洋思想的に奇数は陽数とされ、奇数が重なると陽が重なることなり、陽×陽で結果的に陰となるため、奇数が重なる日は特に嫌われました。

この重日思想のお祓いの行事が日本に渡り、当時の宮中で形を変えたものが定着して五節句になったと言われています。

 

また、1月1日は重日でも年の初めの特別な日とされていたため、代わりに7日になったとされています。

それでは、それぞれの節句の意味をみていきましょう。

 

1月7日:人日(じんじつ)の節句

 

七草の節句。

松の内最後である正月7日の朝は、スズナ・スズシロ・セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザの七草をいれたお粥を食べて、無病息災、長生きを願います。

 

 

人日とは 「人の日」という意味です。

前漢の時代の中国では、元日は鶏、2日は狗(犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、7日は人、8日に穀を占って新年の運勢をみていました。

それぞれの日には、その動物を殺さないこととされており、1月7日の人の日は「人を殺めない」、つまり犯罪者に対する刑罰が行われない日となっていました。

さらに唐の時代には、この日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という7種類の菜を入れた汁物を食べて、無病息災を願うようになりました。

「羹」は熱いものという意味で熱い汁のことを指し、「羹に懲りて膾(なます)を吹く」ということわざもあります。

また、その時代には官吏昇進を1月7日に決めたことから、その日の朝に七種菜羹を食べ、立身出世を願ったと言われています。

 

 

これらの風習が奈良時代に日本へ伝わると、年の初めに雪の間から芽を出した若菜を摘む「若菜摘み」という風習(百人一首にもうたわれており、新春に若菜を食べると邪気を払って病気が退散すると言われる)や、7種類の穀物でお粥を作る「七種粥」の風習などと結びつき、「七草粥」に変化していったと言われています。

813年に嵯峨天皇に若菜の御膳を奉ったのが始まりだと言われ、当時は宮中の行事として行われていたようです。

そして、江戸時代に幕府から五節句のひとつに定められると、庶民の間にも定着していきました。

現代では、お正月の暴飲暴食で疲れきった胃腸をいたわり、野菜不足を補い栄養補給をするという意味合いが強く、それと同時に新年の無病息災を願うようなっています。

 

3月3日:上巳(じょうし)の節句

 

桃の節句。

この時期に咲く桃には魔除けの意味もあり、この日に厄災を祓います。「上巳」とは3月の初めの「巳(み)」の日という意味です。

 

 

現代では女子の成長を願う「ひな祭り」とされていますが、元々は農村での無病息災の行事として行われていたと言われています。

藁や草の人形を撫でることで自らの穢れを移し、その人形を川に流し厄災を祓っていました。

日本でも平安時代くらいから、田植えの時期に田の神を迎えるために、この祓い人形の行事を行い、桃の花の入ったお酒を飲んでいたようです。

流し雛の行事が現代でも行われている地域もあります。

 

 

また、この時代の貴族の女子が人形遊びをするようになり、室町時代には雛遊びの人形を飾るようになったと言われています。

これらの行事が合わさり、川に人形を流すことがなくなると同時に、ひな人形を飾る「雛祭り」へと移行したようです。

 

5月5日:端午(たんご)の節句

 

菖蒲の節句。5月の最初(月の端)の午(うま)の日。

紀元前の中国戦国時代の楚の政治家で詩人である「屈原」が入水自殺した日が5月5日とされています。

愛国の情溢れる詩(代表作:楚辞)を書いた屈原の死を悼み、その亡骸を運んだ鯉を称えたのが鯉のぼりと言われ、粽(ちまき)はその亡骸が魚に食べられないように川に撒いたものと言われています。

その後、命日には川に粽(米を楝の葉で包み、魔除けの五色の糸で縛ったもの)を投げる風習ができたとされています。

 

 

中国では、厄除けのために菖蒲や蓬を門に挿し、菖蒲を浸した酒を飲んで無病息災を祈願していました。

日本でも奈良時代から続いており、5月5日の節会(宮中の宴会)では、無病息災を祈り、天皇が冠に菖蒲を挿して臣下に菖蒲酒をあたえ、御殿の軒には邪気を払う意味で菖蒲を葺ふきました。

また、騎射などの儀式も行われ、天下の安全を祈ったと言われています。

 

 

その後武家社会になり、菖蒲=尚武につながるということで、段々と男の子の節句と変化し、江戸時代には庶民の間にも広まり、男の子を守る意味で鎧や兜を飾るようになりました。

そして昭和26年に「子供の日」として祝日になりました。

現在では、五月人形や鯉のぼりを飾り、男子の無病息災と立身出世を祈願する行事となっています。

 

 

ちなみに、柏餅の柏は子孫繁栄、粽(主に関西)や草餅の蓬は厄払いの意味で食します。

 

7月7日:七夕(しちせき)の節句

 

笹竹の節句。

 

日本には、機屋に一晩こもって機で織った布を神に捧げ無病息災を願ったという、「棚機津女(たなばたつめ)」という伝説があります。

 

中国には、牽牛星(鷲座のアルタイル)と織女星(琴座のベガ)が年に1度だけ会えるという古い七夕伝説があります。

 

また、乞巧奠(きこうでん)という7月7日に織女星が輝く中、星をながめ祭壇に針などを供えて手芸や機織りなどの技巧上達を願う行事もありました。

 

この3つが合わさり、日本での七夕行事に発展したと言われています。

 

 

この乞巧奠という行事が平安時代の貴族たちに取り入られるようになり、お供え物とともに笹が飾られるようになったそうです。

また、宮中では梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになり、これが江戸時代には庶民に広がり、短冊に詩歌を書いて笹竹につける風習として普及して行きました。

 

現在では、短冊に願いを書いて笹竹につるすというお祭り行事になっています。

 

9月9日:重陽(ちょうよう)の節句

 

菊の節句。

9月9日は1番大きい(極)陽数が重なるため、重陽の節句とも言い、古代中国では特に重んじられていました。

中国では、仙人彭祖(ほうそ)の捧げた菊酒を飲んで長命を保った魏の文帝にあやかって、不老長寿を願う行事でした。

 

 

この風習が日本に伝わり、平安時代に「重陽の節会」という宮中行事として、邪気を祓い長寿を願う意味で菊の花を浮かべたお酒を飲んだり、詩を詠んだりしていました。

また、8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭き、長寿を祈願した「着せ綿」や、茱萸(グミ)の実を緋色の袋に入れ厄除けとして飾る「茱萸嚢」という風習も行われていたようです。

江戸時代には、旬である栗ご飯を食べて栗の節句とも言われました。

 

 

残念ながら現在では、祝日でもなく飾りもないためか、一番重要視されなければいけない重陽ではありますが、行事としてはほとんど普及していません。

 

大切にしたい風習

 

東洋思想から起こった昔の風習が現代にも残り、私達はイベントとして普段何気なくおこなっています。

改めてその起源を顧みると、とても興味深く思われたと思います。

おばあちゃんの知恵袋の如く、昔からの言い伝えや風習には必ず「意味」があります。その「意味」を考えれば、心身にとってより良い生活が送れるのではないでしょうか。